長嶋茂雄 私を引退に追い込んだホームスチール事件 - 広岡達朗
by 幻冬舎plus広岡達朗さんの新刊『プロ野球激闘史』(幻冬舎)は、巨人現役時代のライバル、西武・ヤクルト監督時代の教え子から次世代のスター候補まで、27人を語り尽くした“広岡版・日本プロ野球史”。「サインを覚えなかった天才・長嶋」「川上監督・森との確執」「天敵・江夏の弱点とは?」――セ・パ両リーグ日本一の名監督による、知られざるエピソードが満載です。プロ野球開幕まであと少し! それまでは本書をお楽しみください。
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3年目までは天才
東京六大学リーグで当時新記録のホームラン8本を打った“神宮のスーパースター”長嶋は、さすがに並みの新人ではなかった。天才的なグラブさばきと軽快なフットワークは、立教時代、砂押邦信監督の地獄ノックに鍛え抜かれた成果だろう。
とくにグラブさばきで素晴らしいのは、どんな打球に対しても直角にグラブを出したことだ。これは守備の基本中の基本である。
守備範囲も広かった。三塁線のゴロやライナーに飛びつくダイビングキャッチはファンを魅了したし、三遊間もよくさばいた。私の前まで飛び出して独特のサイドスローでアウトにすることも多かったので、「広岡さんが捕りにいったゴロを横取りされて、面白くなかったでしょう」という知人もいたが、そんなことはない。
サードは三遊間であれ、ショートの前であれ、自分で捕れると思った打球は積極的に捕りにいくべきで、それはスタンドプレーでもなんでもない。
守備位置の深いショートはサードが捕れない球をカバーする立場だから、ショートより前にいるサードが三遊間やショートの守備範囲まで捕りにいくのは当然で、他のサードも長嶋の積極的プレーを見習うべきだ。
ところが、3年間は天才的なプレーを見せた長嶋も、4、5年たったころからは普通のサードになった。巨人になじんできたそのころから、ときどき「ヒロさん、今日は動けませんからよろしく」というようになったのには驚いた。そんな日は本当に長嶋の動きが悪かったので、私のほうは大忙しだった。
サインをまったく覚えなかった
長嶋は、サインをまったく覚えない選手だった。
私たちが9年間にわたって三遊間を守ったころの巨人は、サインプレーを徹底的に磨いた。走者が出ると一塁と三塁が猛チャージして送りバントを阻止したし、無死や一死で一、二塁なら、ショートが三塁に入り、ストライクでバントさせた球を三塁に送って封殺するプレーも得意としていた。
守備のサインプレーはサードよりショート、ショートよりセカンド、と重要さと難しさが増し、一塁の王が一番大変だった。そんななかで、サードの長嶋はサインをまったく覚えなかった。
先に述べた走者一、二塁で送りバントを三塁で刺すプレーでも、投手がモーションを起こすと私は長嶋に「5番(サード)!」と大声をかけて三塁に向かったものだ。
サードは基本的に飛んできた球を処理すればいいのだから、他のポジションと連携するサインプレーはほとんどない。それでもチームの基本的なサインを覚えようとしなかったのは、いつも打つことだけで頭がいっぱいだったのだろう。
川上監督との密約サイン
サインプレーで忘れられないのは、神宮球場の国鉄(現・東京ヤクルトスワローズ)戦だ。
巨人のショートを守って11年。私は思いがけない悪夢から、一気に引退への坂を転落することになった。
“事件”は1964(昭和39)年8月6日に起きた。当時3位に低迷していた巨人は、国鉄のエース・金田正一に抑えられて0-2のリードを許したまま七回表の攻撃を迎えた。
反撃に出た巨人は一死三塁のチャンスをつかみ、私が打席に立った。ところが突然、三塁走者の長嶋がホームに突っ込んできてタッチアウト。私はカッと頭に血が上り、次の球を空振り三振してバットを地面にたたきつけ、ロッカールームに駆け込んだ。
私が怒ったのは、「俺のバッティングがそんなに信用できないのか。バカにするな」と思ったからだ。しかし、許せなかったのはそれだけではない。これから追い上げという大事なときにホームスチールをするなら当然サインが出るはずなのに、三塁コーチの牧野からは何も出ていない。私は長嶋のスタンドプレーそれ自体より、川上監督と長嶋の間で2人だけに通じるサインが出ていたことが許せなかった。
屈辱に震えた私は、試合中にユニフォームを脱ぎ棄てて自宅に帰った。当時親しかったガンちゃん(藤田元司投手)が心配して、「試合中に帰ったのだから監督に謝ったほうがいいよ。電話だけでも入れたら?」と忠告してくれたが、自分が悪いのではないと思っていたので連絡はしなかった。
この長嶋本盗事件は、川上監督のサインなのか長嶋の独断スチールなのかをめぐって憶測が乱れ飛んだ。私はその後も「あれは川上監督と長嶋の間でサインが出ていたはずだ」と思っていたが、それは間違っていなかった。後年、川上さんの長男・貴光氏が書いた本に「あのときのホームスチールは『広岡が打てそうになかったので、長嶋にホームスチールをさせた』と父から聞いた」とあったからだ。