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オンライン鼎談書評に参加した(上から)山本貴光さん、池澤夏樹さん、中村桂子さん

今週の本棚:鼎談 自然環境と文明(詳報) 評者・池澤夏樹、中村桂子、山本貴光

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 新型コロナウイルスの感染が拡大するなか、「自然環境と文明」をテーマに、有識者3人がそれぞれ推薦する本についてオンラインで語り合う「鼎談(ていだん)書評」を実施した。参加者と推薦書は、作家の池澤夏樹氏が和辻哲郎著『風土―人間学的考察』(岩波文庫)、JT生命誌研究館名誉館長の中村桂子氏がジャレド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄』(草思社文庫)、文筆家の山本貴光氏がユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』(河出書房新社)。コロナ禍の今、名著を読み直し、人類の生きるべき道を考えたい。【構成・大井浩一、屋代尚則、出水奈美】

■『風土―人間学的考察』 和辻哲郎著(岩波文庫・1111円)

 池澤 哲学者の和辻哲郎が1935(昭和10)年に刊行した本で、風土が人間の文明・文化にいかに影響を与えるか、がテーマだ。彼は風土を大きくモンスーン型、砂漠型、牧場型の三つに分けて論じている。和辻は留学のため船でヨーロッパに行く途中、インドとアラビア語圏でしばらく暮らし、それからドイツへ行った。その旅の体験、観察をもとにした考察だ。

 インドのモンスーン型風土は湿潤で暑い。しかもモンスーンは安定しないから、気象条件が変わる度に人間はそれに振り回される。砂漠型は徹底して乾燥している。牧場型は家畜を囲い込む牧場ではなく、むしろ牧草地を指す。それぞれが人間の性格をどう決めるかを考察していくが、今読んでも示唆に富んでいる。あの時代だから偏見もあって、インドを除いて南洋的人間は文化的発展を示さなかったといった、とんでもないことも言っている。彼はアンコールワット(カンボジア)などは知らなかったと思う。

 この本が今も引用する価値があるのは、例えば、スペイン風邪の時にインドでも多くの人が死んだが、モンスーン型では自然の変化に対する社会の抵抗力が弱いからだと考察している。僕自身の旅の経験からいうと、和辻の論には当たっているところもあり、そうでないところもある。ヨーロッパは一面緑で、それは全部牧草地として使われている。ある京都帝国大教授の「ヨーロッパには雑草がない」という言葉を引いている。その辺に生えている草はみんな羊が食べることができる。その意味で全てが牧草地だと。この印象は、僕自身もフランスに住んでいる時に実感した。

 日本人の性格についても、いろいろ面白いことを言っている。モンスーン地帯だけれども日本はインドとは違う。日本の場合は熱帯と寒帯が交互に来るという派手なモンスーンである。確かにそうで、例えば日本海側の土地は、冬は大量の積雪に見舞われる。これは冬の季節風が日本海から湿気を運んで、それが日本列島の脊梁(せきりょう)山脈にぶつかって雪を降らせる。この特殊な地理的環境から豪雪地帯が生まれる。

 また、江戸・東京とヨーロッパ、なかんずくパリの街づくりを比較した第三章第二節の「日本の珍しさ」では、ヨーロッパの整然たる街づくりを見てきて東京に戻った時、雑然とした街の広がりにあきれたといった比較文明論を記している。平屋が並んでいるばかりの道路を市電が威張って走っているのは、家並みが「ちょうど大名行列に対して土下坐(どげざ)している平民どものように」見える。これに対し、ヨーロッパでは家を縦に積んでいくので街並みが整然として、しかも土地効率がいいから、市街地がだらしなく広がることがない。

 今のパンデミックについて、文明の原理の一つである集中、交通機関の発達による伝播(でんぱ)の速さなどを各論としてではなく、ホモ・サピエンスの生き方に関わる総論として改めて考えていきたいというのが、今回の鼎談の狙いだ。

 中村 「ヨーロッパには雑草がない」という言葉があったが、日本では庭の手入れは雑草とりだとも言える。自然を征服するというヨーロッパの科学の基本的な考え方が、今、世界中を支配しているが、それもこういう小さなところから始まっているのではないか。雑草に悩まされているかいないかという日常的なところが大きな思想につながっていると思うと興味深い。

 山本 池澤さんが言うように、和辻の議論には、なるほどそうだなという面と、本当にそうかなという面がある。風土がそこに住む人の性格などを規定している、という見立てはその通りだと思う。他方で、個別具体的な考察については、どの程度妥当性があるかとなると、読む人によっても違う意見を持ちそう。風土に規定された人間という構想を、どうしたら普遍的なものにできるだろうか。

 池澤 きっちり論旨を積んでいくように見えて、どこか恣意(しい)的だし、知識と経験には当然、一個の人間としての限界がある。ある程度、批判的に読むことにはなる。

 中村 和辻に対しては、学問的ではなくて詩人的だという批判があるが、自然と人間を考えるうえでは、あまりにもこれまで学問的に論じすぎてきたので、和辻のこういう感覚を入れ込む時期に来ていると思う。そういう目で『風土』を読み直してみることは大事だと思う。

 山本 フランスの歴史学者、ブローデルの『地中海』を連想した。歴史を論じるにあたって環境の話から始めている。山や海の形や平野の広がりなどによって、そこでの人びとの暮らしや社会がどう規定されるかを記述しており、『風土』を引き受けてさらに展開したように読める。

 中村 フランスの地理学者、オギュスタン・ベルク氏が作った風土学も大事だ。自然を、環境決定論でなく、全く主観的でも全く客観的でもない「通態的」なものとして見ようと言っている。ヨーロッパの人からこういうことが出始めているのが面白い。

 山本 和辻は風土という見方は、自然科学とは違うと強調していた。土地や自然を客観的に捉えるのではなく、風土はそこに住む人間の生活や主観に関わる。人文的といってもよい見方だ。

 中村 彼は風土について「人間の精神構造に組み込まれた自己了解の仕方だ」と説明している。人間と自然を分けないで、自然を組み込んだ形で了解の仕方を作り上げていくという主張は、私の生命誌がまさにそれを求めており、そういう考え方の始まりとして興味深い。

 山本 和辻の議論には「間主観性」の発想もある。例えば「寒さ」の感覚のように、風土から感じることは個人の主観だけでなく、人々のあいだでも共通する。風土の中で自分を把握し直すという主張もこの文脈で理解できる。今、新型コロナウイルスによって世界中の人が、ある意味で同じ環境の中に置かれ、そこに自分を投影して、それぞれが見比べている時代だという気がする。

■『銃・病原菌・鉄』上・下 ジャレド・ダイアモンド著、倉骨彰訳(草思社文庫・各990円)

 中村 まず、進化生物学者である著者がものした文明論という点に、本書の特色がある。最大の特徴は、ある一つの問いから出発している点だ。ダイアモンドが1972年に熱帯のニューギニアを訪れた際、「カリスマとエネルギーを発散させているような」現地の政治家のヤリという男性から、こう問われた。「あなたがた白人は、たくさんのものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギニア人には自分たちのものといえるものがほとんどない。それはなぜだろうか」と。

 ダイアモンドは数十年の時を経て、ヤリの問いへの答えとして本書を完成させた。良い仕事というものは、良い問いから生まれると思っているが、その好例だ。まず著者は「歴史は、異なる人びとによって異なる経路をたどったが、それは、人びとのおかれた環境の差異によるものであって、人びとの生物学的な差異によるものではない」と明確に記す。今から約1万3000年前、どの地に生きる人も同じスタートラインに立っており、そこからのそれぞれの変化を追うのが本書だ。また、自身がフィールドワークを続けてきたポリネシア諸島の状況に精通しているのも、ダイアモンドの強みだ。ポリネシア諸島は気候や地質、海洋資源、地形などのあらゆる条件が違った島が集まっており、違った文化が育まれている。ポリネシアを一つのモデルとして、地球全体においても、環境の多様性が人々の違いにつながっていると論じている。フィールドワークで得た実態をベースにして論を進めているのが面白い。

 ただ、ダイアモンドは決して、環境が人々の文化や文明を決めるという環境決定論者ではない。この点は和辻哲郎の『風土』の論ともつながる部分だが、環境と人間の創造性とが絡まる中で、文化や文明は決まると論じている。興味深かった視点の一つが、ユーラシア大陸は東西の方向に横長に広がる一方、アフリカ大陸やアメリカ大陸は南北に縦長に広がるのに着目したことだ。緯度がほぼ同じ東西なら、緯度が異なる南北ほど気候や季節の移り変わりは激しくなく、ある気候に順応した農作物の生産が広がる環境に合ったとしている。

 そして、本の題にもなっている銃、病原菌、鉄を、ヨーロッパ人が他の大陸を次々に征服していった要素として挙げている。16世紀のスペインがインカ帝国を征服した例などから、ヨーロッパ人が鉄製の武器、やがては銃器をもっ…

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