心の「澱」軽くする ロバート キャンベル氏に聞く文学の効能
by 村上 隆則小説を読むことで心がふっと軽くなる——そんな経験をしたことのある人は多いだろう。
国文学研究資料館館長で国文学研究者のロバート キャンベル氏は、文学には心の「澱」を軽くする力があるという。緊急事態宣言は解除されたものの、まだまだ不安を感じる日々が続く中で文学ができることとは何か。話を聞いた。
新型コロナウイルスは「時間の災害」
—— 新型コロナウイルス感染症によって、生活に様々な影響を受けている人が増えています。今回、見えないウイルスに対する不安というものが人々のストレスの原因にもなっているように思います
感染症は水害や火災、震災と違って、瞬時に体に何か異変が起きたり、傷がついたりするわけでもありませんし、住空間が揺らされたり壊されたりすることもない。アメリカでは10万人以上が3ヶ月間で死んでいますけれど、その一人ひとりが、隔離病棟で家族に看取られないまま孤独に最後を迎えています。そうした具体的な恐怖だったり、共感であったり、喪失であったりを感じづらいですよね。何も空間が変わるわけでもないし、すぐに何かが自分に起こるわけでもない。よく音楽のことを時間の芸術と言いますが、新型コロナは時間の災害だと感じています。
—— 身体的な接触を避けるために、長い時間自宅にいるという人もいますね
家という限られた空間にいると、一緒にいる人や生き物、植物も含めて、すごく向き合わざるを得ないというか、向き合う機会にもなりますよね。そうすると、いろんな感情のトーンがこれまでとは違うものになってきます。ちょっともどかしかったり、急に怒りっぽくなったり。一方で、なんでもないところで、パソコンを叩いているパートナーを後ろから見てわけもなく感動したりすることがあったり。
文学が持つ「うつろ」が心を軽くする
—— キャンベルさんは文学が専門ですが、こういうときに文学はどんな役割を持てると思いますか
文学って毒にも薬にもならないですよね。医学や工学のような実学があるとすると、文学は虚学の最たるものだと思うんですね。虚というのは「うつろ」とも書くわけですけれども、それは一人ひとりが弱ったときや、社会やコミュニティがぐらついているときにはすごく大事なエリアなんですね。
3.11のとき、私は宮城県に伺って読書会を立ち上げて、被災者と一緒に仮設住宅ができるまで数カ月、一緒に読書をしていました。みんなで短編小説を一つ読んで集まると、それぞれの人がその小説の登場人物の心やリアクションを、自分の経験に重ねて読んでいました。どこかで小説の中の出来事を追体験しようとしていたんですね。
読書会で小料理屋を営んでいる夫婦を描いた幸田文の「台所のおと」という短編小説を読んだとき、一人ひとりが自分が人物のそばに立っているような気持ちで語ったり、代弁をしたり、お互いに、だから男はダメよとか、あの人物は好きだけど私はこうだとかいうふうに言い合っていました。
—— 弱っているときだからこそ、作品に素直に入り込んでいけるということですね
私たちはすぐれた文学作品を読んだあとにしばらくその世界にたゆたっている。それによってガス抜きになったり、心がふっと軽くなったりする。今みたいなときに、一人ひとりが心の中に抱えている澱のようなものを、少し軽くしたり、あるいは澱は澱のままで違う角度から見直したりすることができるのは文学かなというふうに思います。
—— 必ずしも解消されるわけではないけれど、軽くする
そうですね。けっこうそこも大事だなと思います。振られたり失恋したときに、ハッピーなものを聞いたり歌ったりしたい人もいるかもしれませんが、どん底に突き落とされるような悲しいバラードだったりを聞いて、しばらく浸るという人もいる。浸ることによって、自分のバランスを取り戻したりするんですね。
すぐれた文学は嘘をつかないので、読後に、物語のあとにその人たちはどうなるんだろうと考えさせられることが多い。それがそのまま自分の日常に連結して、共感することができると、大きな推進力というか、前に進んでいく力になりますよね。一方で、共感をしないまま、小説の世界や人物に抗ったりすることもある。それも込みで、自分が今できない経験、見ることのできない風景を見せてくれることによって、非常に自分の感覚が豊かになるんですね。
大事だった「一人になった」と感じる時間
—— 現実世界で経験できることの幅が狭くなっているぶん、物語の世界の広がりを感じられそうです
いま、この生活が続く中で、私は乾物や干物のように、少しずつ乾いているんですよね。それをすこしずつ、ワカメやコンブの水に浸したときのように戻してくれる。
文学以外にも、私はラジオも大好きなんです。家の中で何かしながらラジオを流すとなんとなく落ち着きます。情報が詰め込まれている動画よりも……もちろんそれは情報として重要ですけれども、今私たちが求めているものはもっと抜けたもの。自分をそこに重ねていけるような、引きも押しも自在にできる余白を感じられます。これは文学にも共通しますね。
—— 今、家で家族といる時間が長いという人も多いので、ゆっくり文字を読むことが自分自身と向き合うきっかけになるというのはあるかもしれません
これまで外で東京も地方も歩いて、いろんな人に会ってきました。外には誰かに会いに行ったり、何かタスクがあったりして出るんだけれども、移動中の電車の中ほど「一人になった」と感じる空間はなかったですね。家に帰ってくると、くつろいでいるときもそうじゃないときも、どこか一人にはなれないところがありますから、その大事さに気付いたというか。だからなのか、今、私も紙も電子媒体もふくめて、本を読んだり、いろんなものを読んだりすることがすごく増えています。
YouTubeで感染症に関する古典を紹介
—— 4月末には、YouTubeで2つの動画を公開されました。これにはどういうきっかけがあったのでしょうか
私が館長を務めている国文研は全国の大学の共同利用機関として大規模なデータの集積、整備、発信をしています。また、館内にある数十万点の文芸や歴史史料を用い、あるいは新日本古典籍総合データベースという、書誌データを検索するための仕組みを作っています。ただ、本来なら3月は年度末ということもあり、利用者が増えるのですが、新型コロナの影響を受けて4月からは閉鎖していました。
そんな中、国文研の資料を見ていると、過去の書物には、社会が天災に遭遇したときに、その中でお互いにどう守り、コミュニティをどう再生したかという経験が多く記録されていることに気付いたんです。
そこで、古典籍(=明治時代より前に作られた本)の実物を触りながら、日本の古典の中にある感染症に関わる、あるいはそれを主題とした文学作品を口語訳を交えて日本語と英語両方で紹介することにしました。今回アップしたのは麻疹とコレラですね。19世紀に日本を襲った、代表的な感染症です。
—— 過去の感染症に対する対応について、印象的なものはありましたか
江戸時代もソーシャルディスタンス、当時はその言葉はもちろんないんですけども、どうやってそれをとっていたかということがわかります。また、麻疹に限って言うと、江戸時代は升麻葛根湯という薬がすごく使われるんですね。動画の中で紹介した「麻疹癚語(ましんせんご)」の挿絵には、薬屋さんの店頭に、升麻葛根湯という文字が書かれた看板があって、横に「麻疹(はしか)の大妙薬」と大きく書いた板がかけられていますが、この薬を沢山の人が買いに来たという話です。
慶応年間に医師が書いた別の本には、升麻葛根湯という薬はみんな信じて飲むけども、ちょっと症状がよくなったあと、またすぐに重症化するから気を付けないといけないと書かれています。今も言われていますが、感染症の場合は病状の経過にも気を付けようということですね。
アフター・コロナをどこに着地させるか
—— 緊急事態宣言は解除されたものの、遠方への移動やイベントなどの自粛解除は段階的なものになるといわれていて、元通りになるにはまだまだ時間が必要そうです。アフター・コロナという言葉も出ていますが、今後はどのようになると思いますか。
まず、医学をはじめとする専門家の一番の踏ん張りどころであることは変わりないので、彼らの経験や知識を噛み砕いてもらって、私たちにはそれを理解する責任があると思います。
それと同時に、単なる感覚ということではなくて、もう少し具体的なファクターとして、文系的な知見も用いてアフター・コロナをどこに着地させるのかを考える必要があります。そして自分がその中で何をやっていけばいいかを考えないといけない。それが私たちというか、いろんな素材を持っていたり、手法を持っていたり、表現をしている人たちの役割なのだと思います。
プロフィール
ロバート キャンベル:日本文学研究者、国文学研究資料館長。東京大学名誉教授。ニューヨーク市出身。専門は江戸・明治時代の文学、特に江戸中期から明治の漢文学、芸術、思想などに関する研究を行う。テレビで MC やニュース・コメンテーター等をつとめる一方、新聞雑誌連載、書評、ラジオ番組出演など、さまざまなメディアで活躍中。著書に『井上陽水英訳詞集』(講談社)、『東京百年物語』(岩波文庫)など。