「誹謗中傷」規制で最も重要なこととは?

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■「ブログは句読点のある落書き」という台詞

 先日、ウイルス感染の恐怖を描いた映画『コンテイジョン』を観てみた。現在の新型コロナウイルス問題を先取り(先撮り)しているような映画だったが、その中に以下のような台詞があった。

ブログは句読点のある落書きだ

 随分と辛辣な台詞だが、半分は当たっているのかもしれない。

 ネットの中には「正しい情報」と「間違った情報」がある。もっと細分化すれば、書く人が「正しいと思っている(間違った)情報」や「間違いだと思っている(正しい)情報」もある。

 逆の立場で言うと、読み手が「正しいと思っている(間違った)情報」や「間違いだと思っている(正しい)情報」もある。

 こうなると、何が正しくて、何が間違っているのか分からない。

 そんな混沌としたネット社会であるからこそ、お互いの思い込みの相違から誹謗中傷合戦となってしまうことがある。我こそは正しく、相手は間違っているという思い込みが強くなり過ぎることで、相手に対する誹謗中傷が始まる。

 「反アベ」という存在も、我こそが絶対的に正しく、アベは間違っているという思い込みから始まっている。無論、安倍総理にも間違いはいくらでもある。しかし、アベのやること為すこと全てが間違いだと言うのでは単なる誹謗中傷になってしまう。

 何が正しくて何が間違っているのかを追究する姿勢が端から無いのであれば、それは誹謗中傷にしか成り得ないからだ。

■学者も「正しい情報」を発信しているとは限らない

 「正しい情報」と「間違った情報」を見分けるためには、それなりの知性が必要になる。しかし、知識が豊富な人が「正しい情報」を発信しているとは限らず、知識が乏しい人が「間違った情報」を発信しているとも限らない。

 現在の新型コロナウイルス問題でも、一般人よりも専門知識を多く持っているはずの学者が必ずしも「正しい情報」を発信していると言えないことは、この短期間の間に如実に証明されたと言っても言い過ぎではないと思う。

 特に人類が未だ経験したことのないような新しい問題を扱った情報は、どう疑ってみても真実としか思えないものだけ信じる位がちょうどよいのかもしれない。世の中に出回っている情報の半分位は疑ってかかる位が無難ではある。

 そういう意味で言うなら、ブログに限らず、「間違った情報」が書かれているようなニュースやコラムは、句読点のある落書きだというのは当たっている。

 しかし、宗教や哲学の領域になってくると少し話は違ってくる。世の中には、どれだけ知性や理性を有していてもあまり役に立たない領域というものがある。

 特に観念の世界は、知識偏重に成り過ぎると、逆に全く解らなくなってしまう場合がある。むしろ、無学文盲の人の方が優れている場合もある。

 宗教や哲学などの観念的なものが対象となると、知性や理性よりも、感性や悟性というようなものが発達していなければ解らないという場合がある。それはちょうど、どれだけ知識が有っても、芸術を解しない人がいるのと同じようなものとも言える。

■「正しい情報」と「間違った情報」の精査の重要性

 政府は、ネット社会の誹謗中傷行為における規制を検討していると伝えられているが、これも何が「正しい情報」で、何が「間違った情報」であるかの判断ができなければ、危険な面もある。

 自分自身が理解できないことは全て「間違った情報」扱いになり、規制の対象になるというようなことになると間違った全体主義に陥ってしまう。

 また、少し言葉遣いの悪い正しい批判を「誹謗中傷」だと決め付けるようなことになると、ネット社会がより間違った社会にミスリードされる可能性もあるだろうし、逆に言葉遣いが丁寧な間違った批判でも「誹謗中傷には当たらない」ということで素通りとなれば、ネット社会は、ますますカオスな社会となってしまう危険性もある。

 重要なのは、「正しい情報」と「間違った情報」の精査であり、それができてこその規制である。