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1964年東京五輪の決勝・ソ連戦。強烈なスパイクで金メダルに導いた【拡大】

【リスタート・東京五輪】東洋の魔女から中田JAPANへ エースアタッカー井戸川絹子さんがメッセージ

 新型コロナウイルス感染拡大を受けて、来夏に延期された東京五輪に関連する事象を取り上げる不定期連載。最終回のテーマは「金メダリストからのメッセージ」。1964年東京五輪のバレーボール女子で金メダルを獲得した“東洋の魔女”のエースアタッカー、井戸川(旧姓・谷田)絹子さん(80)が取材に応じ、いまの日本代表へ厳しくも愛のある言葉で励ました。(取材構成・川並温美)

 1964年10月23日。ソ連(当時)を破り金メダルを獲得したバレーボール女子“東洋の魔女”の活躍に、日本中が熱狂した。それから56年。本紙の電話取材に応じた当時の中心メンバー、井戸川さんは新型コロナウイルス感染拡大で母国開催の五輪延期に直面した後輩たちへ、熱い思いを口にした。

 「絶対負けられない、という気持ちを持ってぶつかっていかないといけない。自分との闘い。自分に負けたら絶対に(試合には)勝てない」

 80歳の今も故郷の大阪・池田市内でママさんバレーの指導をしている井戸川さん。勝負への強いこだわりは、現役当時の“地獄の練習”で育まれた。

 四天王寺高時代から有力選手だった井戸川さんは卒業後、強豪の日紡貝塚に就職。監督は「鬼の大松」と呼ばれ猛練習で知られた大松博文氏(78年死去、享年57)だった。仕事を終えた後の午後3時から、翌朝5時まで練習が続くこともあった。体をコートに投げ出してレシーブし、すぐに立ち上がる「回転レシーブ」を徹底的にたたき込まれた。くじけそうになったこともある。それでも、ボールをひたすら拾い続けた。

 「バレーボールは団体プレー。仲間がいます。私が一生懸命やっても駄目で落ち込みそうになったとき、周りの人が手を差し伸べてくれた」。回転レシーブは同じ大松監督が率いた日本女子代表の強さ、そして金メダルの原動力となった。

 現在は緊急事態宣言が解除されたばかりで、中田久美監督率いる日本代表は全体練習ができない状況が続く。代表チームの強化プランも不透明だが、「明日から試合、ということになってもいいじゃないですか。今まで自分が一生懸命練習してきたことは、忘れない。一夜漬けじゃないんだから」。猛練習を耐え抜いた井戸川さんは、これまで積み上げてきたものを信じることの大切さを強く訴えた。

 「気持ちが強ければチームも強い。チームがバラバラだったら勝てない。1人がけがをしても、残りの5人で引っ張っていくくらいの気持ちがないと」

 チームとしての団結力で、五輪延期とコロナ禍の困難を乗り越える。レジェンドの口調は確信に満ちていた。(おわり)

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1964年東京五輪・女子バレーボールのメンバー